保守のうさぎ随筆

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カテゴリー: 金日成って偽者だった?!1-4

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金日成って偽者だった?!4-4

2010-03-23
金日成って偽者だった?!1-4
1980年、ソ連よりのエネルギー、援助が大きく減り、国政は深刻なものと
なりました。食料事情の悪化から大量の餓死者もでました。

1980年10月、金日成は「一民族、一国家、二制度、二政府」下での連邦制、
「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側へ提唱。

1985年、核拡散防止条約(NPT)へ加盟。

1987年11月29日、大規模テロ「大韓航空機爆破事件」の主犯として世界より
厳しい批判を受けました。


1991年9月17日、韓国とともに国際連合へ同時加盟。

1992年12月6日、金日成を「サタンの代表、共産主義は神の敵」と非難
していた統一教会の教組、文鮮明が突然に訪朝。
文鮮明から35億ドル(時価4400億円)の支援と引き換えに以下を受け入れました。

(1) 離散家族の再会に取り組む。
(2) 核査察を受けること。
(3) 自由陣営からの投資を受け入れること。
(4) 軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること。
(5) 南北首脳会談を行うこと。
(6) 金剛山開発の実施。

1992年1月30日、金日成は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが
1993年3月には、早くも核拡散防止条約(NPT)を脱退、1994年に3月にはIAEAも
脱退
、核査察拒否を表明したため核開発疑惑が高まりました。

1994年6月、ジミー・カーター元米大統領との会談で、韓国大統領、金泳三との
南北首脳会談の提案を受け入れ。

現在では北朝鮮の核ミサイルは1000発に及ぶとのことです。

<後継者問題>
後継者選定については

(1) 継続革命が必要であるように、首領には後継者が必要だ。
(2) 後継者には最も優秀な人物が就かなければならない。
(3) 後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない。

上記の三点を強調し、決して世襲ではない点を国民に強く示した。

<金日成の死>
1994年7月8日、急逝。享年80歳。死因は心臓発作とされています。
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金日成って偽者だった?!3-4

2010-03-23
金日成って偽者だった?!1-4
<粛清>
金日成は満州派と呼ばれる満州抗日パルチザン出身者たちで、当時は
満州派、ソ連派とは同意であり、ソ連派は金日成を中心とする、親ソ共産主義
政権を作るために送りこまれたソ連国籍の朝鮮人たちにより構成されていました。

満州派はソ連派と共同し、警察と軍を抑える事に専念、その後は国内派の
粛清を次々と開始しました。一連の過程でソ連派も排除され、多くの幹部は
ソ連へ帰国、1967年には満州派が主導権を握る事に。

<独立体制の確立>
金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬り、
1950年代の内にソ連型社会主義体制を築き、1960年代までに満州派=
金日成独立体制を完成させました。

1972年、憲法改正以降も粛清は続き、親類をも失脚させ、1977年には
副主席が追放された。
(アレ、先日は幹事長に副幹事長が解任されたと書いたようry)

<朝鮮労働党初代政治委員>
金日成を含め、10名の政治委員、1名の組織委員がいたが、金日成以外の
9名は処刑、変死、獄死、追放、戦死、事故死等で全員死亡しています。

<1972年憲法以降>
1972年5~6月、南北の代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に
関する会談を持ち、7月4日には「南北共同声明」を発表するが、その後は
北朝鮮が一方的に対話を中断してしまいました。

1972年12月28日、新憲法を公布、新設した国家主席に自ら就任、
独裁体制を固める。外交にも力をいれ、1972年4月~1973年3月
までに49カ国と国交を樹立。

1977年、金日成は国家の公式理念をマルクス、レーニン主義から
「主体(チュチェ)思想」へ変更しました。

※ 主体(チュチェ)思想とは

周辺諸国(共産圏)の影響に苦しんでいた金日成が、反ソ連の立場を
打ち出すために北朝鮮の自立性と主体性を主張し、 「ウリ式社会主義」
(我々式社会主義)
を提唱した。

「ウリ式」なだけあり、その主張、思想、主義はその局面ごとに変わります。

金日正って偽者だった?!2-4

2010-03-22
金日成って偽者だった?!1-4
<ソ連への退却>
抗日活動は徐々に消耗を重ね、1940年秋、金日成は党上部の許可を得ない
まま、生き残っていた直接の上司を置き去りにし、独断で十数名ほどの
部下とともにソ連領沿海州へと逃げました


当初はスパイ容疑を受け、監禁されましたが周保中が身元保障をし、釈放
を受けたとされています。
1940年12月ハバロフスク会議を経て、ソ連極東戦線傘下、第88特別放団に
中国人舞台と共に編入され、第一大隊長(階級は大尉)となり、ソ連内で
軍事訓練を受けました。

<帰国>
1945年8月、ソ連が38度線以北の朝鮮半島を占領し、金日成は9月19日に
ウラジオストクから元山港へ帰国しました。(このとき33歳)

金日成は帰国直前にモスクワへ呼ばれ、ソ連が朝鮮半島北部地域で樹立
すべきと考えていた共産党政権の指導者として、スターリンより認定。

10月14日、平壌でソ連軍の歓迎集会が開かれるが、1920年代から
抗日英雄とされた伝説の「金日成」としては余りに若い風貌に、偽者では
ないかと疑う国民も多く、そのたどたどしいハングル語に途中での中座も
多かったようです。

<指導者へ>
1945年12月17日、金日成は朝鮮共産党分局(1946年6月に北朝鮮
共産党と改称)の責任者へ就任、1946年11月3日には北朝鮮臨時人民
委員会が北部の政府として成立し、ソ連の後押しで金日成がその委員長に
就任しました。

<朝鮮戦争>
1950年6月25日、北朝鮮は38度線を超え、南へと侵攻、理由は諸説あるが
(北朝鮮国内では当然「南」の侵攻とされた。)ソ連、中国のゴーサインを受けて
の侵攻であり、のちには共産圏と米初めとする連合軍の戦いとなり膠着。

金日成は自分の家族を疎開させたあと、10月1日には直近の部下に
「あと、よろしく!」と自らも逃亡しました。


1953年6月の休戦後、何食わぬツラの皮で平壌へ帰還したとのこと。

これで「同胞を捨てての敵前逃亡」は分かっているだけで二度目です。

こんなのが「抗日パルチザンの英雄、金日成将軍」なわけあるかい。

金日正って偽者だった?!1-4

2010-03-22
金日成って偽者だった?!1-4
ここ何日か調べていたのですが、なにせソースは全てネット経由でして。

「捏造」されている部分などが何と無くわかるようになったので
記事にしてみます。

あくまでも「事実と思われるもの」を集めたので、間違いなどあるかと
思いますが、ご指摘いただけたら助かります。

<出自>
1912年4月15日平壌、万景台生まれ。本名 金成柱
両親は基督教徒で、母方の祖父は基督教長老会の牧師でした。

貧農であった事が北朝鮮内では宣伝されていますが、生まれは
朝鮮北部の比較的裕福な漢方医の家に生まれた、という説もあります。

家族で基督教ということで抗日派、もしくはそのシンパであったためか、
1919年3月1日独立運動(三、一独立運動=初期には学生や牧師が主導)
直後の1920年に金日成を連れて南満州(中国東北部)へ移住しました。

1926年満州の民族派朝鮮人独立団体 正義府(金日成の父が関係したと
される)が運営する軍事学校、華成義塾へ入学するも短期間で退学、
(この前後に父がなくなる)その後は吉林の中国人学校へ通いながら
共産主義に関係していた小さな組織に参加、この非合法組織の運動にて
逮捕、中学退学となる。

<中国共産党入党><抗日パルチザン活動>
1931年、19歳の時に中国共産党へ入党。
しかし朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちで、朝鮮人隊員はしばしば
粛清され、それは激化しました。
金日成については賛否両論の評価でしたが、なぜか奇跡的に粛清を免れ
東北抗日聯軍においては第一路軍第六師の師長となっていました。

ここらへんのウィキの記述はとても怪しいです。

なぜなら、「金日正」という人物は4人、少なくても2人いた、本物の「金日成」は
金日成の叔父説もあり、パルチザン活動中に死亡した、という通説があるからです。

つまり、実際に抗日パルチザンとして八面六臂の活躍をした、伝説の将軍と、
私たちの知っている「金正日」とは、全くの別人である
ということです。

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